TOO MUCH BAND

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 平凡パンチ

TOO MUCH BAND

1967年、昭和42年頃をピークに日本中を席巻したG.S旋風も69年には確実に崩壊への道を歩んでいった。
すでにジミ・ヘンドリックス、レッド・ツェッペリンなどの登場によって、英米で巻き起こっていたロックの新しい波は、「ニューロック」という名称で日本にも上陸。これと呼応するかのように、従来のG.Sとは一線を画す、新しいロック・グループが各地で胎動を始めた。ここに日本のロックは、新たな夜明けを迎えるのである。

こうして生まれたグループたちは、
69年に次々とレコード・デビューを飾っていく。
横浜のパワーハウス。東京のエイプリールフール。神戸のヘルプフルソウル。
といった具合である。

中村 俊夫(「宝島」88年2月号より)




ヘルプフルソウルとは、神戸のアメリカンスクールの学生達で結成されたバンドで、結成当初はヤングビーツという名前でスタートした。
メンバーはそれぞれ黒人、タイ人、中国人、韓国人のハーフ達で、リーダーのサイさんのカリスマ的な逸話は地元では有名だった。
その後、メンバーチェンジを経て、66年にヤングビーツはジュニー(G),チェー(B)、ショウジ(LG)、朴(DS),島(V),の5人組となった。平均年令16才。当時は主にアニマルズ、スペンサー・デイビィス・グループ、シャドウズ、ビートルズなどをレパートリーとし、神戸、三宮にあるジャズ喫茶「月光」にしばしば出演していたらしい。68年3月、1学年上のショウジの卒業を機会に、メンバー3人がプロとして活動していくことになり、これに他のバンドから司(Ds),が加わり、名前もヘルプフルソウルとなり、その高い実力で一世を風靡することになる。

ヘルプフルソウルは69年4月に「ソウルの追求」というアルバムをリリース。
続いて7月には、手塚治虫のアニメーション映画「千夜一夜物語」のサウンドトラック(音楽監督、富田勳)をリリース。その中から「アルディンのテーマ」をシングルヒットさせている。
その時のメンバーは、

   ボーカル、  ジュニー・ラッシュ
   リードギター、北庄司・きんじ
   ベースギター、チャールズ・チェー
   ドラム、   司・英一
              であった。


1969年8月、アメリカ、ニューヨーク州ヤスガー農場で前代未聞のロックフェスティバル、「ウッドストック」が開催された。そして翌70年、英国でも「ワイト島ロックフェスティバル」とロック史に残る一大イベントが立て続けに開催された。



その頃、ヘルプフルソウルのボーカル、ジュニーは、いち早く京都の「R.R」に出入りしていた。「R.R」に集う多くの新しい仲間たちの中で、とくいの歌を披露していた。

ダイナマイツのリードギター、山口富士夫も何かをさがしていた。京都に行けば何かに出会える、と胸を踊らせていた。ミュージシャン仲間、堀内リョウジらと京都行きの夜行列車に乗る。

同じ夜行列車にマーシャルのアンプを持った大男、ビル・アッシュも乗っていた。
テキサス出身、空軍大佐の息子である。
「京都のロックフェスティバル、TOO MUCHでプレイする」とのことだった。  彼はジョニーウインターの全米ツアーで前座バンドのリードギターを務めていたという。

小林秀弥は、そのころ神戸を拠点に活動していたニュークリエイションのドラマーで、このグループは当時、神戸で活躍していた3つのバンドが合体したスーパーグループであった。

リードギターには速水清
(当時、神戸で人気を誇った NEW・J・B、というバンドを経て、その後、チューリップ、ジプシーブラッド、井上孝之&ウォーターバンド、BORO、萩原健一グループと活躍する)

ボーカルは中村ヒロアキ☼(2009年1月19日逝去)
(小林秀弥、秋吉剛、山本明正と共にシャンプーというグループサウンズを結成。後に速水清、ヘルプフルソウル のドラマー司英一らとジプシーブラッドを結成。)

もう一人のリードギターには山本明正
(後にインドへ旅したり数々のセッションを経て、ザウンドシステムというバンドを結成、このグループには後に小林秀弥も参加する)

ベースには山村健一
(故大村憲司☼マーティンとカウントジャズロックバンドでベースを弾いていた)といった、神戸ではそうそうたるメンバーのグループであった。

活動拠点は当時、神戸では最先端のディスコ「メイドイン日本」で、なにが最先端かというと、当時サイケデリック・アーティストとしてデビューしていた横尾忠則が描いたサイケデリックな壁画がホールの壁一面に描かれていたのだ。
ブラックライトに照らされたサイケな壁画と強烈なロックサウンドで連日、大盛況であった。

そんなある日、いつものようにメイドイン日本で演奏していたところへ、ジュニーが訪ねてきて、「京都でおもしろそうなイベントがあるので一緒に演らないか?」と、突然誘われた。これまで神戸で先輩バンドとして尊敬していたヘルプフルソウルのジュニーに誘われたのだ。断る手はない。
そのあとすぐ京都に行き、ギターのビル・アッシュ、ベースの堀内リョウジと初顔合わせ。そのまま、京大の地下室でリハーサルに突入したのだ。

ここに、ギターが白人、ボーカルは黒人、リズムセクション日本人といった、日本でも唯一の本格的ロックバンド「TOO MUCH」が誕生するのである。

山口富士夫もやがて、故柴田和志☼ことチャー坊と出会い、伝説のロックバンド「村八分」を結成することになる。

奇しくも、この時、京都では
TOO MUCHと村八分という、個性の際立った2つのバンドが誕生したのだ。




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TOO MUCHのボーカル
ジュニー・ラッシュのインタビュー


・何如ロックミュージシャンとして今あるのか?

ビートルズ、ストーンズを聴いて、すごく感じる所があった、我々の音楽との出会いは、そこから出発したのだ。
しかし、我々はミュージシャンが、ただ音楽が好きで、それをやっているという事ではダメだと思っている。ミュージシャンは、各々、自分自身の考え方なり、生き方なりを強くもって、それを音楽という媒体を通して、コミュニケートするのでなければならないと思っている。

・では、あなた方は音楽で何を言いたいのか?

我々は、みんな「人間である」という事だ、そして、「仲良くやろうじゃないか、  一緒に音楽を楽しもうじゃないか」というような事だ。しかし、それは我々の音楽を聴く側の人達が感じるところのものであって、それが、どのように受け取られようとも、それが我々の言いたいところのものであると思ってくれていい。

・ロックフェスの有効性についてどう思うか?

ロックフェスでは、プレイする側の人間と、聴く側の人間が、レコードや劇場にくらべて、ある特殊な状況におかれていると思う。そこでは、音楽性の価値基準が、まるで違って、群衆とプレイヤーの間に生まれる緊張感や、共感が、むしろプレイの中で大きな位置をしめるようになる。そうした、みんなで共有できる「ハッピーな空間」は、非常に価値あるものだと思う。

・今の、ロックフェスのあり方に満足できるか?

プロモートする側の人間が、ロックそのものを理解していないのが現状だ。単に、ロックミュージシャンを呼んで、金儲けをすれば、それでいいんだという商売人の論理で、全てやられたんじゃかなわない。
基本的には、興行というもの自体の形は変わらないと思うが、しかし、どんな商業主義的なロックフェスでも、ミュージシャンの表現する「場」と、聴衆の自由な「場」というものを、もっと大切にしてほしいと思う。

・あなた方の音楽の特徴は?

それは、聴いてもらえば、そこで感じたところのものである訳だが、特に、我々はヘヴィな中で、メロディックなものを活かす事を心がけている。

・ジュニーの、ステージにおけるアクションの大きい事について?

私の、あの派手な動作は、わざと作っているものではない。歌と共に、自然に出てくるものなのだ、今だかって、私は自分の動作が、どうであったか覚えていた事がない。その最中は、何も考えていない。私のロックは、体で表現する事をも含めてロックなのだ。特に、フェスティバルにおける伝達の手段として、アクションやファッションという視覚的な表現は大事である。

・ドラッグとロックについて?

ロックは、ドラッグと直接にはかかわりがないと信じている。
だから、ドラッグをやったからといって音楽が良くなるものじゃない。人間の体験として、精神の解放剤として、人によっては非常に有益なものかもしれないが、創造と結びつくと考えるのは早計だ。
特に、ドラッグやFIXINGにコントロールされるようになったらお仕舞だ。

・ミュージシャンの生活の態度について?

普通の、平凡な生活がベストだ。
作られたロックミュージシャンのイメージに合わせて生きる事は馬鹿な事だ。

      インタビューア 山形不可止 1971年




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